帝国海軍戦艦・戦艦伊勢型「伊勢」昭和18年(1/700 フジミ)
IJN battleship Ise class Ise (Fujimi)
参考文献:
学研 歴史群像太平洋戦史シリーズ26「伊勢型戦艦」
光人社 写真 日本の軍艦 「戦艦2」(模型写真集)
ダイヤモンド社 呉市海事博物館図録 日本海軍艦艇写真集「戦艦」
図書出版社 木俣滋朗「日本空母戦史」
Reference:
Gakken history of pacificwar seris 26"Battleship ise class"
Kojinsha photograph of IJN vessels
Daiamond sha/ Kures naval museum "pictures of IJN vessels Battleship"
Toshoshuppansha Shigero Kimata "History of IJN aircraft carrier".
フジミのキットをベースに製作いたしました。純正エッチングが出ているので手すり類はラクでしたが、昭和18年、航空戦艦として竣工した時点にするため若干改修をしています。
状態は、昭和18年11月18日に航空戦艦としての改装を終えた段階を再現しています。
This kit is based on kit from fujimi.
Exhibit condition of 1943 , just after completion to aircraft battleship.
<伊勢と日向の相違点>
有名なのは後部マストで、先端が前に着いているのが『日向」、後ろについているのが「伊勢」です。さらに前後から見ると、ヤードの角度が異なります。
艦橋に関しては、「伊勢」は戦闘艦橋後部と羅針艦橋天蓋部に機銃台があるのに大して、日向にはそれがない(昭和18年の改装で「日向」も装備)。
「日向」は羅針艦橋とその上の戦闘艦橋の間に隙間があり、支柱が見えるが「伊勢」にはそれがない。
ループアンテナの取り付け位置が異なるといった差異がみられます。
Most known difference between Ise and Hyuga is on aft mast. the top mast of Ise is located on the front, and Hyuga has it on the front.
On the bridgestructure,there are more diffrence.
Most atractive difference is roop antenna position.
Ise has machinegun deck on the back of battle bridge and on roof of conpas deck (later, in 1943, hyuga also got machineguns on same place).
Thre is room and piller between conpas deck and battle deck (Hyuga).
<船体>
伊勢型の戦時中の写真は少ないのですが、おそらく最もクリアーな航空戦艦に改装された際の写真を見ても、舷外電路がみあたりません。
昭和20年になると、銅材節約と、機雷なら小艦艇で事前に撤去するほうが良いという判断から電路が撤去された艦もありますが、昭和18年の段階で撤去されたという船は聞いたことがありません。
伊勢型は時間的・スペース的余裕があったため、「大鳳」や「大淀」のように電路は最初から内装式だったのでは?と推測します。
鉄板のつなぎ目をデザインナイフで入れ、ファインモールド製のボートダビッドを追加しました。
また、当時はまだなかったスポンソン支柱の穴をパテで埋めています。
Degaussing cable must have been installed in 1941, but it is not seen on picture. maybe she had installed it in inside of ship.
<艦橋>
]
艦橋は22号電探がまだなかった状態を再現しています。
省略されている計測機器類は、レインボー・ジョーワールドのエッチングで再現しています。
機器類の位置と種類は、学研の本が役立ちました。
艦橋前面にある突起物のうち、下の方のもの(旧・副砲指揮所の階)は終戦後の写真を見ると、逆探が置かれていたようです。
Model 22 rader was not yet installed in 1943.
Small targetting and gun control unit are add reffer to book from Gakken.
On the front of the birdge, there seems to be passive rader unit.
<甲板>
アンカーチェーンを実際の鎖に換装しています。
錨見台のグレーチングはジョーワールドのエッチング製。
たくさん置かれているボートと内火艇は主にピットロードの追加部品セットを使いました。
<後艦橋>
伊勢型の特徴である後艦橋マストは、純正エッチングと真鍮線を交えて再現しています。
Aft mast is made of both brass lines and photo-etched parts from fujimi.
<飛行甲板>
昭和18年の段階ではまだ単装機銃は置かれていなかったため、奇獣を取り付ける穴はパテで埋めました。
飛行機運搬軌条は純正エッチングを使いました。甲板は終戦後の写真を見ると、コンクリートで覆われていたようです。
Reffer to piture taken after war, sueface of aircraft deck was covered by concrete.
<武装類>
主砲は、砲身をクリッパーモデル製の金属砲身に換装。
機銃と八九式連装高角砲は、ファインモールドの「ナノ・ドレッド」シリーズを使いました。
<艦載機・第634空>
今回昭和18年〜19年の状態で再現しようと思ったのは、この艦載機を載せるためでした。
昭和18年12月、「伊勢」は航空戦艦としての改装を終え、昭和19年5月には小沢中将指揮下の第3艦隊二編入され、「日向」とともに第4航空戦隊を構成しました。
第4航戦司令官には松田千秋少将(昭和18年に大和の艦長を歴任)、634空司令には天谷孝久中佐(海兵51期)、飛行長には江村日雄少佐(海兵57期、後に司令に昇格)が任命されました。
伊勢・日向はそれぞれ11機の「瑞雲」とD4Y「彗星」が搭載されました。
彗星当初は水冷エンジンの21型を搭載する予定でしたが、実際は空冷の33型を搭載したようです(木俣滋朗「日本空母戦史」670ページには
「カタパルトでも射出可能なように改造された21型」とありますが)。
「日本空母戦史」には、昭和19年5月の段階では計画上、「日向」には彗星14機と瑞雲8機、「伊勢」には彗星8機と瑞雲14機が搭載される予定でした。
実際は機体トラブルもあり機材も揃わず、それでも6月23日(マリアナ沖海戦当日)初めて射出訓練が行われ、25日には瀬戸内海で彗星・瑞雲10機の連続射出訓練が
行われた、と軍艦伊勢出版委員会刊「軍艦伊勢」下巻にあります。7月と8月にはそれぞれ全機射出訓練が行われました。
しかし、昭和19年のフィリピン戦が開始されると653空は
母艦から切り離され、彗星隊は台湾へ、瑞雲隊はフィリピン・キャビテ軍港近くの水上機基地へと送られ、以降「伊勢」「日向」はカタパルトを撤去され、以後艦載機を搭載することはありませんでした。
Aircraft of ise/ unit 634
After the battle of Midway, the loss of 4 aircraft carrier was great shock for the IJN, and that made them to remodel this old fashon battleship to "aircraft carrier battleship".
Flight unit 634 was founded as a part of 4th fleet aircraft division. On the first stage, Ise and Hyuga was designed to carry both Zuiun and Suisei,
Ise was designed to carry 8 suisei and 14 zuiun, and Hyuga had 14 zuiun and 8 suisei (actualy, they never got chance to carry this number).
On the book of Shigeo kimata, Ise and hyuga carried enforced model 21 suisei, but she seems to have carried model 33, with aircooled engine.
On may 1944,Ise, Hyuga and the unit 634 was signed on 4th fleet ,under control of admiral Jisaburo Ozawa.
Top of 4th fleet air comand was vice admiral Chiaki Matsuda, Teamreader of 634 unit was Takahisa Amatani (chusa,kaihei 51, known bomber pilot),Hikocho was Hiou Emura (shosa, kaihei57,later became aircomand).
Mr Emura was the person who designed aircraft battleship together with Mitsuo Fuchida (chusa) during Yokosuka institute of battle tactic.
Unit 111 began training on 1f, but lack of both aircraft and pilots were serious, and they succeed to obtain designed number on june 1944.
Suisei unit trained mainly on Iwakuni, and Zuiun unit was mainly on Kure.
On 23thJune 1944, Ise and Hyuga got first chance to launch aircraft .
On 25th, during the training sail on Setonaikai,launched 10 zuiun and suisei in safe. But they could not join on A-go misson.
On the October 1944, unit 634 was separated from the fleet, suisei,s unit was moved to Taiwan with commander Amatani, and Zuiun,s unit was ordered to move to philipine
floatplane base in Cabite with Emura. Result, 95% crrew died.
Since then, Ise and Hyuga got no chance to carry aircraft again.
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