帝国海軍重巡洋艦利根型「利根」(昭和17年5月〜6月)(1/700 アオシマ)
IJN heavy cruiser TONE(Aoshima)


TONE
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参考文献:   
     光人社「写真 日本の軍艦3」  
     光人社NF文庫「予科練の空」   
    「日本海軍全艦艇史」  
    学研 歴史群像シリーズ47「利根型重巡」  
    グランプリ出版「日本の巡洋艦」  
    海人社「丸メカニクス 日本巡洋艦」
     防衛庁防衛研 戦史室編纂戦史11巻『ハワイ作戦』

Referring:
Kojinsha ”Pictures of IJN vessels”
Gakken "TONE class heavy cruiser"
“History of all IJN vessels”
Grand prix press “Japanese cruisers”
Kaijinsha “MARU mechanics IJN cruisers”
 アオシマのキットをベースに製作しました。
 砲配置が特徴的な本艦だけに、砲塔を左舷に旋回させた訓練中の姿にしてみました。
This model is based on AOSHIMA,s kit.
As this ship is known by its specific style, I decided to turn all turrets to portside.
<船体>
 船体にはあらかじめ鉄板の継ぎ目と汚水捨て管がモールドされていますが、はっきりさせるためにも プラ棒で作り直しました。艦首方向のエッジはおとしています。
 舷外電路は、良好な写真が残っていたので問題なく取り付けられました。
 舷外電路は0.3mmプラ棒にて再現。 
 アンカーはファインモールドのプラスチック部品を使用しました。
 甲板上のディティールは通風きのことホーサリール、昇降口などほぼすべて新造しました。

<主砲塔>
 砲塔はキット付属のダイキャスト製。
 砲身は真ちゅう製に換装。
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TONE
TONE

<艦橋>
TONE

 キットには防空指揮所がついていますのでこれをオミット。
 開戦時の艦橋前面の遮風装置は「筑摩」のそれを参考にしました(緑の矢印)が、実際にこの形状だったかは不明です。
 ディティールを最も追加したのは艦橋基部の吸気口で、真鍮線で接合部を追加、穴あき真鍮板で補強、 さらにキット付属のエッチングパーツで出口の枠を追加しました。
 同様の穴あき真鍮板(ファインモールド製)は高射装置付近にも使用しています。
 信号指揮所からは「利根」を示す信号旗を掲げました。実際はめったにそんな信号旗は掲げませんが。
Flags suggests name of "TONE".
 12.7cm連装高角砲はピットロード製のものに真鍮製砲身を追加。探照灯、 連装機銃はファインモールド製。指揮所の双眼鏡類はジョーワールド製のものを使用しました。
マスト上に開戦時に設置されていた水雷用九二式発射指揮盤はほとんど双眼鏡のような形状だったので、 若干大きめのサイズになるハセガワ製エッチングを使用しました。

Benoculars are from JOE WORLD. that on top of mast is targetting device of topedo.
Shape of windshield reffered that of Chikuma, 1941.

<航空兵装>
TONE

 状態はグレーの零式水観を搭載したかったので開戦時の状態を当初考えていたのですが、完成後、「零式水観は 開戦時まだ搭載されていなかった」とのご指摘があったので調べなおしたところ、ハワイ作戦時には零式3座、 九五式2座水偵のそれぞれ1機づつが「利根」から発進しており、零式水観はまだ搭載されていなかったようです(「防衛庁防衛研 戦史室編纂 11巻『ハワイ作戦』」によると高橋洋一一飛曹機・零式3座は0100発進、収容の際機体を破損するも搭乗員に怪我はなし」とのこと。この偵察作戦が、〇式3座の初舞台でした)。
 
 では一体いつ九五式から零式水観に換装されたのか?は、「丸スペシャル」等多くの文献でも例外的に「不明」となっています。
 そこで、まず現存する「飛行機搭載艦編成表 及 飛行機定数表」を見てみると
昭和16年12月1日  2SR(2座機)×2、3SR(3座機)×2
昭和17年1月1日   2SR×2 3SR×2 
昭和17年4月1日   同上
昭和17年6月1日   2SR×2 3SR×3
と、4月から6月の間に3座水偵が一機増えていることがわかるものの、機種までは書かれていませんでした。
 そこで、「利根」と「筑摩」の「艦船行動調書」を調べたところ、真珠湾攻撃からミッドウェー海戦までの間に飛行機を載せかえるチャンスは 2回あったことがわかりました。
 以下は昭和16年12月29日から5月27日「利根」の行動詳細です(行動を共にしていた「筑摩」は9割内容は同じ)。
S16.12.29 呉入港
(チャンスその1)
S17. 1.10 呉出港 
     1.23 1,3,4号機、ブカ島攻撃
     3. 1 チャラップ攻撃 (3日の可能性も?)
     3.25 アドミラリティ諸島 偵察・攻撃  
     4. 8 2号機、スンダ攻撃
S17. 4.23 舞鶴入渠      
(チャンスその2)
     5. 3 出渠 14時係留替え
     5.16 舞鶴出港
       17 柱島到着
       27 柱島出港
 この間、FO(燃料重油)・(航空機用)軽質油・食料等の明細のある補給の記録はあるものの「飛行機を載せ変えた」記録はありませんでした。
 九五式水偵と零式水観はメカニック的に互換性がなく、操縦特性もかなり違ったそうで(後者の方がどちらも扱いにくい)、飛行機だけ道中 拾って選手交代、というわけにもいかないはず。そこで今度はパイロット・メンテナンス要員の人事の面から調べてみることにしました。
 人事異動に関しては「海軍事例広報」に詳細が載っている為、これを昭和16年11月から6月まで調べたところ、航空関係者の異動は ただ一件のみ確認することができました。
「昭和17年5月11日(月) 筑摩飛行隊分隊長 (元)霧島飛行隊分隊長 海軍大尉 浦田正海
この約半年の間、およそ「利根」「筑摩」にはおよそ20人の異動が記録されていましたが、主計の異動が最も多く、パイロットとメンテナンス 要員の異動は確認できませんでした。
 こうなると「利根」「筑摩」航空隊は開戦時と同じ人員で構成されていることとなり、パイロット・メンテナンス要員は は機種転換訓練を昭和16年12月から1月、昭和17年4月から5月の間の短い期間しかとることが出来なかったことになります。
 「利根」「筑摩」共に昭和17年1月〜4月は積極的に飛行機を使っていますが、はたして慣れない機材でここまで運用できたか?ちょっと 疑問です。
 そこで結局、書類上飛行機の数が増えており、最も可能性の高い舞鶴入渠時が現状最も零式水観を載せた可能性があると判断し、この模型の 時期は「昭和17年5〜6月」とすることにしました。
零式水観が3機で零式3座水偵が2機なのは機数が逆ですが。
飛行機のマークはサイズ的に無理なのでなにもしていませんが、手持ちの光人社「軍用機メカシリーズ」 の零式水偵では利根のマークは昭和17年までJ1(赤字)、昭和19年8月からは237(青ないし白色)、 塗装は昭和17年夏ごろからダークグリーンになっていたそうです。
 さらに、第9期乙種飛行予科練習生だった本間猛さんが著書「予科練の空」で興味深い証言をされています。
 同氏は、昭和十九年7月6日、詫間空から巡洋艦「利根」勤務となり、当初「利根」の4番機付けになっています(これで、利根が当時5機の水偵を搭載していたことが判明)。
 レイテ沖海戦時、昭和十九年19月23日、「高雄」「愛宕」「摩耶」が雷撃を受けるさなか、同氏を含めた水偵隊は艦隊の前哨の後ミンドロ島サンホセに移動することになりました(当時同氏は2番機付け)。
 25日の夜間索敵飛行の歳、サマール島東で沈み行く「筑摩」と救助の駆逐艦「野分」を目撃しているのですが、その際に「利根」と「筑摩」の差異について述べています(以下「予科練の空」198Pより)
 「おい、御召艦だぞ。『利根』が傾いているぞ」
 確かに砲塔4基が前甲板にある「利根」型だ。だが、後櫓の中ほどに白線が巻いてある。戦隊識別である。
 「機長、『筑摩』です。後櫓が白く塗ってあります。」
 「そうか、白線が巻いてあったか。わが御召艦ではなかったか」(以上)
 
 こうして、利根はおそらく何もなく、筑摩には白線が巻いてあることで識別がされていたことがわかります。
 
 艦の塗装は開戦時〜ミッドウェー前を想定して作ったので、艦橋トップを白にして、機体はグレー塗装としました。
 後に、ミッドウェー海戦直前の5月27日の写真を参考に、飛行機を零式3座3機、九五式水偵一機に改修してみました。
 カタパルトはキット付属の呉式五号に,飛行機用軌条はジョーワールド製、飛行甲板の床面は残念ながら よくわからなかったので、光の具合から滑り止めの砂まじりのペイントないしコンクリートの床としました。
 残念ながら写真では見えませんが・・・・スロープの右舷側には人力ウインチを真鍮線で作りました。

At the beginning of build, I planned to make Tone at Pearl harbor attack, but after finished to make and uploaded this article and picture, some suggested that "F1 did not join on PHA misson".
After making reserch again, I found that Tone launced each one of type0 3seat plane and type95, not 0, 2seat plane(F1).
Problem is:"when did they change the plane?"
According to remaining "list of aircraft at fleet", TONE and CHIKUMA carried
1941.12. 1 2of 2seat 2of 3seat
1942. 1. 1 same
1942. 4. 1 same
1942. 6. 1 2of2seat 3of3seat
I also found description about TONE,s type 0 3seat plane(JAKE) used at mission of Pearl harbor on war history cronicle edited by department of history in Japans ministry of diffence . it say:
"The JAKE succeed in mission came back to TONE in safe, but plane got damege by splashdown. fortunately, no pilots got injured."
There seems to have change of number at april to june.but there are no description about aircrafts type.
Next, I looked at shiplog. and I found out that TONE and CHIKUMA had 2 chance to change aircraft at Japanse port.
Forrowing date is reffered to TONE shipslog (CHIKUMAs log is 90% same).
1941.12.29 arrive Kure
(1ST CHANCE)
1942. 1.10 dep. Kure
1.23 Plane number 1,3,4 attacked BUKA isl.
3. 1 Attacked Tjilatjap (maybe 3th?)
3.25 Attacked and scout Admirality islands
4. 8 Plane no,2 attacked Sunda
4.23 Arrived MAIZURU, dock in
(2ND CHANCE)
5.16 dep. MAIZURU
17 arrived HASHIRAJIMA
27 dep. HASHIRAJIMA
There are several record of replenishment about fuel, foods being written, but nothing about aircrafts and materials.
As type 0 and type95 2seats plane have no mechanical interchangeability, pilots and engineers needed training to change plane.
That could make personel change, I thounght.
So, I looked at "IJN Personnel changes record" from dec.1941 to june 1942.
Result was: almost no change.I could find only one change of aircraft crew.
"11th may 1942 Tone aircraft unit captain F/Kirishima aircraft unit captain Masami Urata"
If so, crew of TONE and CHIKUNA fought with almost same crew since Pearl harbor.
Both TONE an CHIKUMA used aircrafts offencive from jan. to may 1942. my question was, if they equiped new, not accustomed plane, could they make such offencive use?
SO, my current conclusion is : Most possible time of changing plane is may to june 1942.
(please do not count plane number of model; it has 3 of 2seat plane and 2 of 3 seat plane...number is opposite.)
According to Kojinsha,s "type 0 water recon plane", tailnumber of TONE is J1 being painted in red till 1942, and since august 1944, number became"237" ,painted in white or blue.
Type0 3seat plane is supposed to be painted in green till misson of Midway, but accurate data is unknon.
Takeshi Honnma, the 9th "otsu" reserve pilots class, was in charge of Tone,s recon team since july 6th 1944.
He was first signed as the 4th plane,later, changed to 2nd planes pilot. He describes Tone,s aircraft team on book "sky of Yokaren"(kojinsha non fiction series).
He say, that Tone in 1944 carried 5 recon plane, and there were more than 10 pilots on board.
During the battle of Leyte, all the planes of 2nd fleet (but for Yamato and Musashi) was ordered to move to San-hose , and planes could not move directry from there ship, without having enough comunication equipments. O
n 26th october night, Honnma,s plane has found sinking Chikuma on the east coast of Samar.
First, he thought it maybe his ship, but he has found white line on aft mast, and he noticed it were Chikuma. from this witness, defference between Tone and Chikuma appeared.

<中央構造物>
model

終戦時の写真を見ると、艦橋左右にあるボートデッキのボート置き場には滑り止めつきの鉄板になっている (赤い矢印)ようなので、筋彫りで表現しました。
探照灯周りもブルワークに見えるので真鍮板で作りました。
煙突のパイプ類もすべて新造しています。
<その他>
 空中線は銅線製。
 クレーンはキット付属ののエッチング部品に換装しました。
 船体各所のフェアリーダーはプラ板で自作。一部大型のきのこ通風塔は真鍮線製です。
 探照燈はファインモールドの透明部品に換装。
 ボートダビッドはファインモールドのものを使用しました。
 艦尾付近には自作の救命浮き輪をとりつけました。

All pipes are changed to brass line.
Crane is made of photo-etched parts from FINEMOLD.
serchlights are clear parts from FINEMOLD.
KURE type5 Catapult is from FINEMOLD, and tracks are from JOEWORLD.
Fairleads are self made from plastic plates, and mushroom pipes are being add on deck.
TONE


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