帝国海軍戦艦・戦艦大和型「大和」(1945年4月7日・天一号作戦時・黒甲板)(1/700 タミヤ)
IJN battleship Yamato class Yamato(Tamiya)

Yamato
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参考文献:
学研 歴史群像太平洋戦史シリーズ54「戦艦『大和』『武蔵』」
「戦艦大和」(模型写真集)
ダイヤモンド社 呉市海事博物館図録 日本海軍艦艇写真集別巻「戦艦 大和・武蔵」
防衛省図書館所蔵資料 C戦闘詳報723−2「戦闘詳報軍艦大和」
「軍艦大和戦闘詳報 第三號」
           E兵器1「軍艦大和砲噴兵器」
           E兵器2「旧軍艦大和砲噴兵器」
光人社 リバイバル戦記コレクション1「大和主砲指揮所に地獄をみた」
「写真 太平洋戦争」
    ヤヌス・シコルスキー「戦艦『大和』図面集」


Reference:
Gakken history of pacificwar seris 54"Battleship Yamato and Musashi"
"Battleship Yamato" (Photos of model)
Daiamond sha/ Kures naval museum "pictures of IJN vessels Battleship Yamato and Musashi"
JSDF library source number 4 battle record 723-2" battle record of Yamato"
"battle record of Yamato no.3"
6 weapons1 "WArship Yamato,s arms"
6 weapons2 "Guns of Yamato"
Kojinsha war record "I saw hell on top of Yamato"
Blueprits of Yamato by Yanuz Sikulski
 昭和20年4月7日、沈没する数時間前の状態を想定して制作しました。
 今回の目玉といいますか特徴は「黒い甲板」です。
 レイテ沖海戦時の「大和」「武蔵」が甲板を黒く塗っているのは有名ですが、天一号作戦時(沈没時)の大和もこの塗装を甲板に施していた、 という説を書いたのは自分の知りうる限りの資料の中では、光人社の「写真 太平洋戦争」が一番古いです。

 この米軍機の撮影した写真のキャプションには、「甲板が黒く塗られている」だけでなく、甲板に描かれた「被害箇所をわかりやすくするための白点 」に関する説明まで描かれていました。
 これまでは出撃数日前に撮影された甲板での記念写真や、グレー塗装の錨甲板とのコントラストの明らかな 呉空襲の写真の写真もあって「レイテから帰ってきた大和の甲板は再度材木の色の露出 したものにされた」のは間違いなく、そのままの状態で天一号作戦に臨んだ、というのが定説になっています。
 しかし、2007年になってアメリカの公文書館で「出撃6時間前に偵察機によって撮影された大和のカラー写真」が発見され、これをみるとやはり甲板は黒く塗装 されているように見えました。
 では仮に甲板が黒く塗装されていたとすると、この黒い甲板、一体なんのためのものなのでしょうか。
 防衛省図書館所蔵資料の「軍艦大和戦闘詳報 第三號」に昭和十九年10月18日に甲板を黒く塗装した記録があり、一般的に「戦艦の木甲板が目立つから」という理由で 塗られたようです。
 もちろん、中川俊少佐のまとめた「ウェーキに関する研究」というもので「軍艦に迷彩したところでウェーキで進行方向や存在は視認できてしまう ので航空迷彩は実施してもあまり効果はない」と結論が出ていますが、それでもあきらめきれなかったのかレイテ沖海戦の前頃からに空母の甲板に中途半端な迷彩をしたのは 有名です。
 なぜ船体と同じ色ではなく黒色なのか?は、海面の色とのコントラストを考えてのことでしょう。ペンキの調達に関しては、元々軍艦のグレーは 白と黒のペンキを適当に現場で調合して作ったもので特段基準はなかった(このせいで各工廠・造船所で差異ができてしまったとされています)為、 白と黒のペンキは両方あったはずです。実際、戦艦「武蔵」はブルネイにて最後の塗装を行っており、「まるで死に化粧だった」という乗員さんの 感想が残っています。ですので、塗料に関しては調達上あまり問題はなさそうです。
 しかしこの黒ペンキ、昭和20年1月になって撮影された写真ではまた元の材木の色に戻っているようで、どうみても黒色には見えない写真が 多数残っています。
 どうやら、この黒塗装は一時的なものであったようです。
 しかし、天一号作戦時の写真でも黒く見えるものが多数あります。これに関しては
1.「甲板のつやとグレー塗装の錨甲板との反射光の違いでそう見えるだけ」
2.「木甲板が劣化して濃いグレーに見えるようになった」
などの説があります。
 1に関してはその可能性は否定できません。が、複数のアングルから「錨甲板のほうが明るく見える」のも妙です。
 2に関してははっきりと否定できます。なぜなら、確かに甲板の材木は経年劣化でかなり濃いグレーになることはありますが、それにしても 多めにみつもっても築4年の「大和」がそこまで劣化するとも思えません。
 また、大和の第1砲塔付近はレイテ沖で被弾しており、昭和20年1月までにここは修理されているため
木甲板は少なくとも被弾箇所の部分は新品の材木で覆われているはずだからです。そして、呉空襲の際撮影された写真をみると、特段被弾し、修理された 箇所とその他の(創建当時そのままの)甲板の材木の色は極端に違っている様子はみられません。
 これはまた聞きの情報なのですが、大和の13mm連装機銃を担当されていたという方の証言で「被弾した箇所は甲板が張り替えられていて、そこだけ 白っぽく見えた」という情報もありました。
 ちなみに、帆船の甲板の材木を扱っている人にいわせると、船の甲板材は船の強度にも影響してくるので中途半端なところで区切ることはせず、 フレームを意識して配置されるものだそうです。
 また、被弾した箇所は内部も破壊されている為その被弾箇所のフレーム間の全ての鉄板(と甲板材)が撤去されているはずで、爆弾であいた「穴」のところだけ新品にした、と考えるよりは その付近全部が交換されたと考えるべきで、個人的にはその修理の際に甲板全体を一度やすり・かんながけしたので甲板全体が白く見えるのだと思います。
 ではどうして再度黒く塗装したのか?という理由が必要になってきますが、これはレイテ沖海戦の時同様、目立たないようにする為以外に「甲板の 被弾箇所をわかりやすくするため」という理由もあると思います。
 レイテ沖・天一号作戦両方の写真を見ると、甲板には白い点らしきものが舷側に見えます。
 これもはっきりとした一次資料はないのですが、この白点は被弾箇所を艦橋からみてわかりやすくするためのものだったということになっています。
 「白点」といっても実際はたたみ一畳くらいのサイズがあったと思いますが。
 また、白点ではなくフレームナンバーが記載されていたのではという説もありますが、そうなると船首・船尾方向のものほど道路に書かれた字のように 縦長にしないといけなくなるので現実的ではなさそうです。
 おそらく、10・20・30とか25・50・75といったきりのいい数字を目安にしていたのだと思います。
 尚、大和は天一号作戦に出港後、甲板をブラシで磨いたという証言がありますが、常識的に考えてブラシ程度で落ちるような塗料は使っていなかった (甲板の掃除は毎日の作業です)はずですので仮に黒く塗装されていても問題はないと思います。レイテ沖海戦時の塗装はやすりかかんながけでも されて落とされたのでしょう(もしくは元から短時間で剥離するような一時的な塗料だった可能性もあります)。
 今回は論より証拠、ものはためしに黒塗装甲板の「大和」を作ってみて検証してみることにしました。


The main motivation to make Yamato 1945 with black deck is that I got to know the new data.
Yamato,s deck is known to be painted in black during battle of Philipine 1944 (being confirmed on official report). but later pictuire shows the deck is being recovered to bare wood deck again.
The only color picture (taken 6hours before sailing out from Kure) ,which was found onthenational archive in Washington DC, showed Yamato ,s deck seemed to be painted in black.
Most plain comparison of "black deck " is comparing shade of wood deck and anchor chain deck(painted in glay).
The main purpose of black paint must be camouflage, but the camouflage of ship were recognized as " not successful" because of the wake, says reports of major Shun Nakagawa in 1942.
But camouflage of ship was operated actualy to decks from summer 1944. maybe that was recognized as "better than nothing".



There are some "White" spots on deck, which seems to be marks of frames , in order to recognize damage clearly from the bridge.
Picture of model is taken on late october , on cloudy day, just same as the day of battle.
Maybe bare wood deck looks better as model, but I made this to spread variations of model.

資料提供:大和ミュージアムYamato
 これらの模型写真は10月末、秋の曇りの日差しの下昼前後に撮影したものです。日差しの強さに関しては作戦当日とほぼ同じ条件だと思います。
 この写真を撮ってから、ちょっとぶれてしまった写真を見て気がついたのですが、周囲とのコントラストの強い白点がカメラがぶれることによって 強調されているのがわかります。この「ぶれによる強調」を木甲板そのままの塗装の模型を作って比較してみましたので御覧ください。
 個人的には模型的な見栄えを考えると木甲板のほうがいいのでしょうが、一応黒く塗るというオプションもあってもいいのでは?少なくとも 否定する要素無いと思い、今回制作してみました。
  <模型の甲板の制作>
 甲板は、やすりで凸モールドをおとしてから、デザインナイフで材木のつぎ目をいれておきます。
 さらに、材木の配置パターンを横線で入れておきます。この横線は何メートルおき、という基準ではなく、鉄板下のフレームを意識して配されていたそうです。
 艦首フェアリーダー・ブルワークは戦後海中で撮影された写真があるのでこれを参考にディティールアップしました。
 錨甲板の鎖は本物の鎖に換装。
 木製甲板は今回、黒・ジャーマングレー・タンを混ぜた塗料で塗りました。
 白点はピットロードの飛行機用デカールに入っていた四角のものを半分に切って使いました。
<舷>
 側面はデザインナイフでけがいて鉄板の継ぎ目を表現、閉塞された窓は若干オーバースケールですが 0.4mmプラ棒をスライスしたもので表現してみました。駆逐艦の場合は0.3mmのほうがよいと思います。
 舷外電路と汚水捨て管はプラ棒で新造しました。
 ボートダビッドは今回始めてファインモールド製のプラ部品製を使用しましたが、若干繊細すぎて模型的な見栄えはいまいちなようです。 もうひとまわり小さな戦艦ならちょうどいいかもしれません。
<主砲>
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 今回46cm砲はアベール社製真鍮製ひきものに換装。砲塔上の機銃ブルワークはジョーワールド製のエッチング角型 ブルワークに変更しました。。
 パーペットの補強板はプラ板製です。
<副砲>
 15.5cm砲は砲身を真鍮製のものに換装。
 側面はデザインナイフで線をいれて放熱板の継ぎ目とすきまを塗装も用いて表現しています。
 試験航海中の「武蔵」の写真で明瞭に見える砲塔基部の穴も加工したんですが、残念ながらほとんど見えません。また、背面にはパラペーンを配置してあります。

 この副砲、高角砲としてもかなり機能したらしいのですが被弾に伴い旋回できなくなってしまい戦闘中に正面方向で固定されたそうです。
<艦橋>
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 艦橋構造は学研の「大和・武蔵」を主に参考にしています。
 主な改造箇所は旗甲板と電探位置でした。
 艦橋上の二一号電探はゴールドメダル製。背面の補強は0.2mm真鍮線で造りました。  二二号はキットのものに穴をあけました。
 二二号のラッパの内側は白く塗られていたそうですが、これだと塗ってもわかりませんね。
 艦橋前面側壁には、逆探を装備しています。
 

 艦橋後部は「大和」「武蔵」の数少ない識別点のひとつなので、踊り場を含めて再現しています。。
 艦橋背面には拡張された旗甲板を施工しました。
 旗甲板から伸びていたのかそれとも艦橋から伸びていたのかは不明ですが、ヤードから 伸ばした索の外側の速力標は「全速力」状態にしています。
 証言では、この艦橋ヤードに軍艦旗が翻っていた、というものがありますが、これはデザインはいっしょですが役割の違う「戦闘旗」だったのかもしれません。
 戦闘中は普段艦尾にある軍艦旗はマスト上のガフに掲げることになっているそうなので、後部マストにちょうどよいガフがあったのでそちらに掲げています。
 艦橋トップの対空艦橋には、ハセガワ製の双眼鏡を配置(ジョーワールド製のもののほうが小さくてスケール的には精確なんですが、ちょうど 在庫がありませんでした)しました。
 窓枠もジョーワールド製エッチングですが、艦橋背面の窓は正確には6角形だったようです。
 信号灯とサーチライト類はファインモールド製の専用部品を使いました。
<煙突>
 煙突まわりのグレーチングは、0.1mm真鍮線製。。
 煙突脇の探照射燈は、菊水作戦時はうらがえして防水カバーをつけていたそうです。
 写真ではわかりませんが、ヤヌス・シコルスキーさんの図面から、煙突背面には吸気口を設けてあります。
 「大和」型独特の大型サーチライトはファインモールド製の透明部品もあったのですが、天一号作戦時は鏡面を外側にしてカバーをかけ、破片対策を していたそうですのでキットの部品をそのまま使いました。
<後部空中線支柱>
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 ヤヌス・シコルスキーさんの図面を参考に、真鍮線で組みました。
 小さな探照燈がマストの中ほどに載っていますが、これはファインモールドから出た部品を使っています。
 十三号電探は敢えて大き目のピットロード製のものを使いました。スケール的には大きすぎますが存在感を主張できます。

<高角砲・対空機銃>
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 今回、カバー付高角砲の砲身は、アベール社製の真鍮製のものを使用してみました。
 
 裸の高角砲はピットロード製のものをベースに、補強リブなど部品を追加して1基あたり14個の部品で作りました。
 
 砲身はコストを考えて、0.3mm真鍮パイプを転がして切った物を使っています。。
 
 射界制限装置は真鍮線製。甲板上の裸の3連機銃はどれもファインモールド製です。

 今回初めて、ファインモールドから出ているプラ製の機銃を使いましたが、これは創建時の大和型なら1箱、レイテ沖の状態では2箱、最終状態の 大和を作るには3箱必要で、3箱も買うと「大和」本体のキットの値段を超えてしまうというものでした。  この部品の箱絵を見ていて疑問に思ったのが、対空機銃カバーと突き出している銃身のあいだのすきまでした。
 箱の絵では、車庫のシャッターやよろい戸のような可動式の複数の部品からなるもの、もしくはとたんのような板ですきまが覆われている イメージでしたが、これでは人力で上下操作する機銃の 場合問題があるのでは・・・?と疑問に思い、以前「武蔵」を作ったときはここの部分は「すきま」のままとしました。
 実際、映画「男達の大和」で再現された機銃では、すきまはとたんのような可動できる板で覆われている表現となっていましたが、では実際どうだったの だろう?と思い、昭和18年6月に昭和天皇がご行幸された際の写真(これが唯一、カバー付機銃がこっちを向いている)を拡大してみました。
 すると、どうやらすきまは板状のもので埋められていることがわかりました。板と銃身は密着しておりませんが、おそらく銃本体と連結していて、 銃を上下操作すると連動してこの板も上下する機構になっているのだと思います(ドイツの20mm機銃にも同様のシールドとは呼べないような湾曲 した板がついていますね)。
資料提供:大和ミュージアムYamato
 そんなわけで、今まですきまをわざわざ作ったのはちょっと無駄だったようですので、今回はカバー付3連装機銃はキットのまま使っています。
 考えてみれば、もしこのすきまを覆うカバーがないと、主砲ブラストだけでなく雨水も入ってきてしまいますね。
 「大淀」「秋月型」の主砲など、レギンスに頼らないメカニカルシールは当時から普及しだしたようです。
 裸の3連装機銃に関しては、カバー付機銃が元々あった場所の裸機銃はシールド付、それ以外のものはシールドなしとしました。
 シールドの有無に関しては、確固たる証拠はないのですが、少なくとも無管制・無動力の機銃には重量の問題から(シールドは、薄く見えておよそ2tある そうですのでつけると人力旋回は不可能になります)盾はついていなかった、と断定できます。
 機銃増設に伴い、特に視界の無きに等しいカバー付機銃には必須となる機銃射撃指揮装置も増設しています。装備位置は学研の太平洋戦記シリーズ54「戦艦『大和』『武蔵』」を基にしました。
 「大和」の戦闘詳報の最後のほうにある「戦訓」の欄には、「大和が多数の機銃を有していたにもかかわらず撃墜機数が多いのは、機銃と離れた位置に ある機銃射撃指揮装置とのずれのせいで火線が集中しなかったため」と書かれているため、実戦を経験したレイテ沖以降も指揮装置との位置関係から くるラグ・ギャップの補正はできていなかったようです。時間的余裕があったのに補正されなかったのは、元々一つのデータしか送れないシステムだったのかもしれません。
 機銃や砲に関する一次資料として砲の艤装を担当された方の書かれた「旧軍艦大和砲噴兵器」という立派な資料がありますが、残念ながら機銃に 関しては若干信憑性が薄いようで、艦橋の13mm機銃は「単装」とされてしまっています。
 これに関しては呉の海事博物館に「前部艦橋13mm連装機銃台構造」という昭和15年10月3日付けの図面が残っており、「大和」「武蔵」の 元乗員三の方々にも多数この連装機銃を見た方がいらっしゃるので、連装機銃だったのは間違いないようです。
 ただ、これはまた聞きの情報で裏が取れていないのですが、「大和」の13mm連装機銃を担当されていたという方が「レイテ沖で負傷し、昭和20年に 復帰したら自分の担当していた機銃が連装から4連装になっていた」との証言があるため、信憑性は薄いのですが4連装というマイナーな銃に関する 情報も珍しいので、これを採用して模型では4連装機銃にしました(前述の図面を見ても、4連装を置くのにスペース的な問題はなさそうです)。
 
「写真 日本の軍艦」には4連装機銃は戦艦では大和と比叡のみ装備した、と書いてあり、模型はファインモールド製のエッチング製のものを使っています。
 学研の「戦艦『大和・武蔵』」を参考に、機銃指揮所も増設してみました。
甲板上の指揮を受けない機銃のブルワークは海底調査と記念写真で確認できますが、これには白いふちどりがされています。
 これはおそらく、工期短縮のため、通常であれば保安のために鉄板のぷちを丸めるかパッドをするところ、そのような余裕がなかったため「ここは危険ですよ」 という意味でふちどりをしたのだと思います。
 ブルワークのそばには、サンドバッグと、水のはいったドラム缶を置いてみました。ドラム缶やボートに水を張って、断片防御に使う方法は 日露戦争当時から行われていました。
 砲塔上の機銃のブルワークと追加デッキもジョーワールド製ですが、ここの周囲には一号キャンバスという防水布でくるまれた柔道畳でかこわれて いたという証言があるため、金属板でこの畳を表現しています。
 しかしこの砲塔上の機銃射手さんたち、主砲発射時はどこへ退避すればいいんでしょうか・・・?
資料提供:大和ミュージアムYamato

 馬蹄型に積まれた土嚢(米袋に砂を詰めたものらしいです)は人間の背の高さくらいを想定しました。戦艦「武蔵」のそれは、舵のモーメントで 崩れないようにパイプで組まれた骨組みの内側に積まれたそうです。この土嚢はポリパテで作りました。
 単装機銃はこの第1砲塔そばのほか、艦尾にも置いています。両方ともジョーワールド製を使いました。
<艦尾・飛行甲板>
Yamato
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 飛行甲板上のリノリウム歩行帯はプラ板で自作。
 飛行機運搬軌条はジョーワールド製。
 昭和19年の通達で大型艦船にも対潜爆雷を搭載したそうなので、機銃台付近に爆雷の入った装甲ボックスを追加しました。
 これを制作した時点で、学研の「大和・武蔵」に装甲板のせいで生じた飛行甲板の段差については認知しており、それを基にしたエッチングパーツも ジョーワールドから出ていましたが、「いわれないとわからない程度の段差」だったのでけがいて線を設けることでこの段差を表現してみました。

 海底調査でそれらしきものがみつかり、複数の写真でその存在の確定した艦尾機銃座はジョーワールド製部品を使いました。
 これに伴い、艦尾旗ざおは収納された状態としています。 <航空機>
 「大和」は天一号作戦の際、1機だけ零式3座水偵を搭載していました。
 この飛行機は出雲雅成上飛曹機で、作戦当日0600に「大和」後部飛行甲板右舷カタパルトより前路対潜哨戒のため発進の後、指定基地に着水、 爆装の上待機、という記録があります。
 その後出雲機は指定基地から佐世保に移動待機、機体返納の後、出雲さんは館山で終戦を迎えています。
 そんなわけで出撃前の模型を作るなら右舷側カタパルトに零式3座を載せるとよろしいようです。



Yamato carried 1 type zero 3seats plane during the mission.
the aircraft, steered by Masanari Izumo hisocho, were being launced from starboard catapult on 6AM to patrol, and came back to base.




<空中線>
 空中線(アンテナ)は残念ながらはっきりした資料がないので、呉の海事博物館の模型と、「武蔵」の写真を参考に展張しました。
 昭和17年6〜7月に徳山〜呉間で撮影されました「武蔵」の写真を見ると、後部アンテナマストから伸びている線のいくつかは 煙突後部方向に伸びているのがわかります。
 また、船の舵の状況を後続艦に知らせる舵柄信号も左右に見えますが、これの「基本位置」と思われる場所には白線がマストに塗装されているようです。  
 艦尾のクレーンについていたアンテナポストは撤去されていたようですので、これも取り付けていません。
 レイテ沖海戦時の戦訓から、機銃の射線に重なるアンテナ線はできるだけ撤去されていたようです。
 実際、「武蔵」の乗員の方が「戦闘中、切れた空中線が甲板を蛇のようにのたうって危険だった」という証言もされています。
資料提供:大和ミュージアムYamato

<想定した状況>
 折角なので、主砲を写真に映っている実際の姿を想定して角度をつけてみました。
 実際にこの主砲が使われたという記録は「9発」「6発」、中には「0発」とまでするものがありますが、生き残った着弾修正担当の小林健さんは 「偵察に現れた『マーチン』にむけて9発発射、速度27ノット」という証言を残しています(他にも戦闘中やぶれかぶれで撃った、という証言も されていますが、これを裏付ける資料はありません。)。この射撃は戦闘詳報にも載っているので「主砲を撃った」という事実に間違いはないようです。  しかし、艦の前にいる敵に向かって射撃したとなると、後ろの砲は撃てませんから「6発」という数字が最も正しいのでは、と思います。
 主砲発射の際はてすりも収納する為、敢えて砲塔付近の手すりはつけませんでした。  
 副砲も前部は写真のとおりに配置しましたが、この時点で既に後部副砲と副指揮所は被弾して使い物にならなかったようです。  
 対空機銃はつい丁寧に定位置方向?を向かせてしまいましたが、各指揮所の向いている方向にあわせればこの指揮所の指揮を受けてるんだな、 ということが表現できたのでしまったな、と思いました。
Yamato
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